おとぎ話『かちかち山』はご存知でしょう.『かちかち山』の「まきでおばあさんを殴り殺し、大鍋で煮てしまう」というシーンはたしかに残酷です。
しかし、その「残酷さ」は現実とはあきらかに区別された架空の物語の一部にしか過ぎません。
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《Column 考えるということ》
そもそも「夕焼けがなぜ赤い」と子供は思うのでしょうか。逆に大人は思わなくなってしまったのでしょうか。色の波長についての知識を持ったからでしょうか.現代社会においては、大人が持つ自然に対する探究心と子供が持つ探究心とは、微妙な違いがあるのではないかと思われます。
人に教えることと個性の尊重
私は人を教えるときに2つのことを心がけています。1つはやり方を教えること、もう1つは教える相手の精神状態を見ることです。
何をどうやってやればいいのかわからないのに、ただやりなさい、がんばりなさいと言われるのはつらいことだと思います。何をどうやったらできるようになるのか、工夫するように心がけています。
また、やる前からあきらめている、やる気がおきない、心が折れている人に対してがんばれと言うのは、言われる人はつらいことです。
なぜ、やる気がでないのか、どうすればやる気はでるのかを考えるようにしています。私はこれらのことを無視した根性論はある意味暴力ではないかと思うのです。
例えば、折り紙ができない子供の話があります。親は先生に電話をします。「この子が今ツルを折れなくても、我が家としてはかまわないのですが--」。「できなくてもいいのよ」という言葉は大変慈愛に満ちた言葉のように聞こえます。
しかし、それは子供にとってよいことなのでしょうか。この発言は見方を変えれば子供の個性をつぶしてしまう考えだとも読めます。「できない」という言葉は自分の可能性を閉ざしてしまう言葉であるからです。できないのなら時間をかけてできるようになればいいのではないでしょうか。
もちろん一流になる必要はありません。しかし、積極的に物事に向かい合おうと努力することは大切だとおもいます。極端な例ですが、かけ算ができないことが私の個性だと居直ることもできます。そんな人は個性的な人です。しかし、現代社会を一人で生きていくのは難しいはずです。
たかが折り紙です。できなくとも生きてゆけます。しかし、親は「この子がかけ算ができなくても、我が家としてはかまわないのですが--」とは言わないと思います。
個性の尊重をした教育は大切です。思想の多様性を受け入れない社会は、それだけで危険な社会だからです。しかし、社会の構成員が個性的すぎて意思疎通できないのも問題なのです。
個性尊重のヨーロッパに権利思想がうまれたのは、この意思疎通の難しさがあるからなのです。もめ事が起こったときに和解が困難であるので法律を使って強制的に解決しないといけないのです。
例えば、アメリカは乱訴社会といわれています。個性豊かな国民同士が自分の権利を守るためにちょっとしたことでも裁判を起こします。裁判にいたる前に話し合いで解決することがほぼ不可能だからなのです。
子どもはそういうものとして、その非現実的な空想の世界に立ち合うだけなのです。
そこからどのようなことを受け取るのかは、全面的に子どもにゆだねられています。
そして、(ここからが大事なのですが、)「空想と現実との間の行きつ戻りつ」が、「そこで育まれる豊かな想像性」が、子どもの主体的な精神形成にとっては不可欠なものであるにちがいないのです.